『ゴーギャン展』を東京国立近代美術館で観る
東京国立近代美術館で『ゴーギャン展』を観る
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東京国立近代美術館で開催されている『ゴーギャン展』を観てきました。
お目当ては日本初公開であり彼の最高傑作とされているボストン美術館所蔵の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』(以後、長いので『われどこ』と略す)です。
んー、何とも意味深で哲学的なタイトルです。
そのせいか、企業のCMや会社案内の素材にされたり、学術書や論文のレジュメのとびらなどに書かれたりすることが多いように思います。

東京国立近代美術館
東京国立近代美術館

前日、遅くまで友人と飲んだにもかかわらず早い時間に目が覚めてしまったので10時の開館時間に合わせていくことにしました。
地下鉄東西線の竹橋駅で降り、美術館に到着したのは9時20分ほど。
「ちょっと早すぎたかな」とは思ったものの閉ざされた入り口ゲートの前には、既に数人の見学者が列を作って並んでいます。そして、それを仕切っているのは数人の警備員。
9時40分ぐらいには入り口のゲートが開き、チケット売り場の窓口の前に並ぶことができましたが、そこからが長かった(ように感じる)。
結局、チケット売り場のシャッターが開いたのは10時5分ほど前です。
もっともチケットを購入してからは、待つこともなくスムーズに展示室に入ることができました。
入場してすぐの展示室では多くの人が足を止めゴーギャンの初期の作品を見入っているのを尻目に、こちらはお目当ての作品まで早足で展示室を駆け抜けていきます。
どうやら同じ考えのオジさんが一人いたようで、周りに5、6名ほどいるキュレーターの間に立ち単眼鏡を目に当て絵に穴が開くほど眺めています。
さも、「ズルしましたね」と言いたげなキュレータの視線を感じながら、作品の正面に立ちじっと『われどこ』を見入っていました。

われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか

薄暗い展示室に1枚だけ飾られた絵は、高さが150センチ弱、横が4メートル弱ぐらいの大きさ。
正直に言えば、想像していたものより小さい。
当然、実物を見るのは初めてなわけで、絵は百科事典や本などの印刷物でしか知らないわけですが、その絵から受ける印象から言えば少なくとも人物は「ほぼ、等身大ぐらいのサイズはあるのではないだろうか」と勝手に思い込んでいたわけです…。
まあ、こんな風に想像とサイズが違っていたということは、珍しくありません。
というわけで、やはり実物を見るのが大切と実感するわけです。

われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか:東京国立近代美術館で『ゴーギャン展』を観る
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか

絵は全体にブルーが効いていて華やかな印象はあまり感じられませんが、人物の色使いや南国を思わせるモチーフが絵をそれほど陰気なものにしていません。
全体的に画面をいっぱいに使っていて余白を感じさせないてんこ盛りといった印象です。

絵の左上にはフランス語で
D'ou Venons Nous(われわれはどこから来たのか)
Que Sommes Nous(われわれは何者か)
Qu Allons Nous(われわれはどこへ行くのか)
と書いてあります。

絵の構成自体も右側の赤ん坊が描かれているところが「われわれはどこから来たのか」、中央部の果実を採っているところが「われわれは何者か」、そして左側の老婆が頭を抱えているところが「われわれはどこへ行くのか」と解釈されているようです。
多くの宗教画を描いているゴーギャンですが、この作品にはイコンといわれる宗教画に近いものを感じます。
この作品を描き始める時期、ゴーギャンは体調も精神も最悪の時期を迎え自殺を決意していました。(自殺は未遂に終わる)
そして死ぬ前に芸術家としての集大成となる作品を残しておきたいと考えて制作されたのがこの『われどこ』です。
ゴーギャン自身、この作品を「これまでのすべての作品を凌いでいるばかりか、今後これを超えるものを制作できない」と友人にあてた手紙の中で語っています。
数分、先着のオジさんと肩を並べるように絵を眺めていましたが、それも長くは続かずぞろぞろと人が来始めたので、こちらは入り口付近に戻って一から見学しなおしです。

展示作品に彼の自画像がありましたが、なかなか渋い美男子です。
彼のせいで多くの女性が泣きを見ました。
開館して、すぐに行ったのがよかったせいか展示室内もそれほど多くの人で混み合うこともなくわりと自由に作品を観ることができました。

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