長谷堂城跡公園を歩く - 2018年春

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山形市の南西にある長谷堂城跡公園に行ってみた。
以前から気にはなっていたが、先日、高橋義夫の『さむらい道』という山形の殿様、最上義光を描いた歴史小説を読んでみたのがきっかけとなった。
長谷堂城は南北約670メートル、東西約400メートルの独立した丘陵につくられた山城です。

公園としてきれいに整備されている
水堀
八幡崎口

時間は12時を、少し回ったころ。
広い駐車場には7、8台の車があるが人影はない。
大きな案内板を眺め、一通り、ルートを確認する。
ずいぶんと整備されている印象。
自分の記憶が間違いなければ、2009年にNHKで『天地人』という直江兼続を主人公にした大河ドラマが放送されたタイミングで整備されたのだったと思う。
すぐ、そばに水堀の遺構がある。
ほう、水堀もあったのか。
案内板によると幅7メートル前後、深さ2.7メートル規模の水堀が確認され、長谷堂城を一周し、東側は町場を囲むように一部、二重となっていたと推測されるとある。

八幡崎口から八幡神社までは舗装されている
八幡神社
桜が植樹されてきれい

案内板に設置してあったパンフレットを手に、いよいよ頂上を目指す。
駐車場から道路を挟んだ鳥居をくぐり階段のある舗装された道を50メートルほども登っていく。
桜は終わりかけ。
散った花びらで通路は桜色に染まっている。
最初に見えてくるのは、八幡神社。
縁起がないので、いつぐらいにできたものかわからない。
そこから、また、登りだす。
周りには植樹されたのであろう桜が咲いていて、かなり整備されてる様子。
芽吹いたばかりの木々に囲まれ「のどかだなぁ…」と思う。
しかし、山城として使われた当時は、見通しを遮り、燃やされる危険があった樹木は、ほとんど取り払われたという。

新しく整備された西向口への道
帯曲輪
曲輪には柵も再現

少しすると、「帯曲輪群」や「土塁」、「帯曲輪」といった城塞としての遺構が見え始める。
曲輪(くるわ)とは山の斜面に設けた平坦な区画のことで、兵が待機したり、敵がとどまった場合は攻撃などを仕掛けるなどの防御施設となる。
一部の広い曲輪には柵も再現してあった。

横矢掛り
虎口という遺構
やまがた県百名山
山頂広場はかなり広い
背面には「昭和三十七年三月 本澤郷土研究会建之」とある
山頂から見下ろす山形市内

横矢掛りという敵の側面へ矢を射かけるために屈折させた通路を登り、虎口といわれる頂上への出入り口を抜けると山頂広場へでる。
ここまでは、ゆっくり歩いて20分ほどだろうか。
山頂広場はあずまやがあり、かなり広い。
「やまがた県百名山 城山」と書いた柱が建っていたが、この場所が山形百名山であるのも城山といわれることも、初めて知った。 
あずまやでは小さな子どもを連れたグループが花見を兼ねてだろうか、昼食をとっていた。
欅(かな?)のみごとな大木がある。
もう少し、景色がいいかなと思ったが周辺の木々が邪魔して眺望はあまりよくない。
晩秋や早春の樹木に葉のない時期なら眺望も期待できそうだ。
特にすることもないので、頂上を一周して案内板に「観音坂口・湯田口」とある南のほうから下ることにする。

春日神社
春日神社そばの枝垂れ桜
桜は散りはじめ

下り始めると、すぐに枝垂桜の大木が視界に入る。
枝垂桜の大木のそばには春日大社の古い社があるが、寂れた感じが物悲しい。
花も散り始めといったところだが、見事に咲いている姿を観られたことを幸運を思う。
写真を撮るが、太陽の位置がよくないせいで、きれいに撮ることができず残念。

この奥に 長谷堂観音
長谷堂観音(最上三十三観音・第十二番札所)
大手門口までは、こうした山道を下る

枝垂桜の先には、鳥居がありこの奥にも何かありそうだと感じさせる。
50メートルほども行くと、ここにも神社がある。
最上三十三観音の一つで十二番札所となっている長谷堂観音である。
御本尊は十一面観世音菩薩で行基の作だという。
簡単に拝観をすませ、先を急ぐ。

奥が阿弥陀堂
阿弥陀堂の入口の門柱には禁酒の文字
阿弥陀堂(慈眼庵)

帰りは登りと違う、「大手門口」に出る道を行くことにする。
整備はされているが、木々が鬱蒼としていて、まぁ、山道である。
藪蚊なのかコバエなのか虫がついてきて鬱陶しい。
5分ほども下ると、今度は小さな阿弥陀堂(慈眼庵)が見えてくる。
やはり、桜が咲いている。
気になったのは、ここの石柱の門に「禁酒」という文字が刻んであったこと。
これは、なに? なんで?
よくわからない。

長谷堂城跡大手門口の周りは住宅地
阿弥陀堂からは出口まではすぐ。
人さまの庭先にあるような小道をたどり出口に到着。
辺りは住宅地だ。
ここから、5分ほどで駐車場に到着。
今回は何もリサーチせずに登ってしまったので、見落とした遺構もあった。
というわけで、次回は、もう少し勉強して違うルートを見学したいと思う。

慶長出羽合戦(長谷堂合戦)について

長谷堂合戦については『最上記』や『奥羽永慶軍記』などに書かれ『長谷堂合戦図屏風』にも描かれています。

出羽の関ヶ原・長谷堂合戦
慶長5年(1600年)9月、徳川派の最上義光の山形城を落とすべく豊臣派の上杉軍が直江兼続を総大将に2万5千名と、庄内からの援軍を加えると優に3万名以上の大軍が攻めてきた。13日には畑谷城を攻め落とし、14日には長谷堂城の北西1kmばかりの菅沢山に本陣を構え、長谷堂城を包囲した。
守るは、長谷堂城兵僅か1千名とはいえ、大将は最上軍きっての知将・志村伊豆守光安で、城兵は士気に溢れ、知略に長けていた。しかも堅城で、度重なる上杉軍の猛攻に対し、知将志村軍駆け引きは誠に見事で、半月・15日間もの間、上杉軍を翻弄し続けた。その間、上杉軍の剣豪・上泉主水泰綱をはじめ、名だたる武将達が討死させられ、上杉軍の犠牲は甚大であった。最上軍にも多くの犠牲者が出、伊達政宗の生母義姫の護衛役・加藤掃部左衛門清次もその一人である。
9月29日夜、「関ヶ原で豊臣方が負けた」の報が直江兼続に届き、一刻も早く会津へ戻り、善後策を立てるべく、10月1日上杉軍は一斉に撤退を開始した。最上軍・伊達軍はここぞとばかり追撃したが大激戦となり、最上軍総大将の最上義光も兜に銃弾を受けた。伊達郡の湯目加賀守重旧もこの戦いで戦死した。長谷堂合戦での戦死者は両軍合わせて2,300名を優に超えると言われている。
大軍を相手に勇敢に奮闘し、父祖の地を守り抜いた長谷堂城兵の意気は、我々本沢人の魂に脈々と受け継がれている。

「歴史と文化の里 本沢 - 本沢地区振興協議会」パンフレットより

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦は、当初、徳川家康の上杉景勝に対する追討という形で進められましたが、上杉軍と直接合戦したのは最上義光と伊達政宗の援軍でした。その最大の合戦場となったのが、長谷堂城周辺です。
米沢から侵攻する上杉軍の主力の直江兼続軍は約二万の兵といわれています。
対する長谷堂城は最上氏家臣の志村光安を大将とする三千から五千程度の守備兵でした。
直江軍は九月十三日に長谷堂城の北西約十キロにある畑谷城を落とし、翌十四日に長谷堂城から北西約一キロの菅沢山へ本陣を構えました。
合戦の経過は以下の通りです。
十五日 最上義光からの援軍が直江軍に襲われる。戦死者二~三百人。
十六日 長谷堂城軍が直江軍の春日右衛門の陣を夜襲
十七日 上山において最上軍が大勝。その知らせが届く。
十八日 直江軍が総攻撃。長谷堂城軍は弓鉄砲で追い払う。
二十二日 伊達の援軍が山形に到着する。
二十九日 長谷堂城周辺で白兵戦。関ヶ原で徳川側の勝利が伝えられる。
十月一日 直江軍撤退。最上軍、伊達軍が追撃し激戦となる。このとき、最上義光は鉄砲で兜を撃たれたといわれる。
なお、この合戦の様子を模写した屏風と、このとき義光が着用していた兜は、市内の最上義光歴史館に展示されております。
最上義光歴史館
山形市大手町1-53
023-625-7101

長谷堂城跡公園 案内板より

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